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あめつちのことづて

「めごばいのうてきよらしたもんな」(籠を担いで売りに来ていた)。

時を遡ると約15km離れた漁村から、1日に1度か2度、天秤棒の両端に下げた籠いっぱいの魚を行商が運んて売りにきていたという。道のない時代の生活圏は今とは異なるのではないだろうか。そして、水俣病は日々の食卓から始まった。

 

山の作物は海へ、海で獲れた魚は山へ。

海と山、互い結う暮らしがここにもあった。

 

田に水を張り稲を植える。山に生かされ山に祈る。

そして、火の灯るところに人が集う。

 

私たちは利便性を追求しようと社会を発展させていく。その影で失くしたもの、失くそうとしているものがあるかもしれない。

ただそこにそっと在る、言葉にならない言葉を、天地のことづてに耳を傾け、淡々と見つめたい。

 

この日常のふとした会話や動作に水俣病の影が現れる事がある。だが、そこに気づくかどうかは私も周囲も本人ですら感じ方は様々で定かではない。かろうじて現代もなお土着した暮らしの残るこの土地の暮らしを見つめながら一度足を止め、歩きながら考える。

 

 ”山間部、半数に水俣病症状”

 2012年1月、新聞の1面に目が止まった。2011年10月に集落の公民館で行われた集団健診で、当時住民78人中39人が受診し、そのうちの37人に水俣病の症状が確認された。

現在のことなのか?海ではなく山?

私は熊本県熊本市に生まれ育ち、同県南部の事だが何も知らなかった。数日後、集落へ向かった。

白波が寄せる日が珍しいほどいつもは静かな不知火海のほとりの港町(熊本県芦北町田浦)から山あいへ。鬱蒼とする杉山を抜けた先にその集落は山に這うように空と同時に広がった。

この集落は黒岩という。

黒岩地区は、水俣病の原因となったチッソ水俣工場のある水俣市から約40km離れた山間集落だ。

初めてこの場所を訪れた時、「水俣病」という言葉とは無縁で、他の山間集落となんら変わりない暮らしの風景が広がり困惑していた。

 現在の水俣病事件被害者の多くは、慢性型水俣病で、初期に見られた激しい痙攣や錯乱状態といった劇症型水俣病とは違い、四肢末端の痺れや感覚障害など外見に分かりづらい。それ故に、本当に病なのか疑われ差別をされたり、声を上げづらい風潮もあるという。さらに、加齢によるもので、自身が水俣病だとは思わなかったという話も珍しくはない。

 

2009年7月に水俣病特別措置法が成立。2010年5月の申請開始から2012年7月が申請受付終了する間に約38000人が救済を受けた。しかし、地域や年代の線引きにより救済を受けることができなかった人々の中では今も裁判が続いている。

認定、未認定、未申請、公式確認以前など含めると被害の人数は正確にはわからない。数で言えば数でしかないないが、水俣病の本質は数で数えられるようなことではないだろう。月日が経つごとに、この病自体、そして病が生み出した土地に根付く影の本質に辿り着けることは途方もないことなのかもしれないと気付かされていく。それでももっと知りたいと思ってしまう。

水俣という土地に身を置き、そこに暮らすものの視点の近くで不確かな感触を集めながら歩きたい。

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